ぶりこらーじゅ

思いついたことを組み合わせて

無理をしない

無理をしない。無理をするとよくない。


十全な状態で全てを消耗して叩き出す150%の力。多分部活の試合とか受験はそういう爆発力が必要で僕がなんとか人並みに受験を突破し、仕事にありついている。ミジンコでもなんとか人間(?)になれている。


ところがどっこい、社会人(社会人って何?)はそういうメガンテを連発する方法ではやってけない、瀕死状態になってもよく頑張ったね、今日はおやすみとはならず、明日は黙々とやってくる。


決して無理をしてはいけない。

でも無理をしないとミジンコになってしまう。


就活

就活シーズンだそうで。


就活解禁、という文字列を見た途端になにかマグマのようなものが五臓六腑から溢れて目から飛び出してきそうな感覚に襲われた。なんだろう。悔しさ?違うな。少なくとも青春時代を思い出してああよかったな、とか辛かったな、としみじみする類のものではない。夏の日差しとか爽やかなものじゃなくて吐瀉物を浴びてるような。


何がそんなに鬱屈とさせていたのだろう。今となってはわからない。いや思い出せば一晩吐き出せるほどには色々なものが渦巻いているのだけど、よくわからない。根本的な嫌悪の理由がわからない。仕事が嫌な理由とはまた違うような、同じような。


公立中学での経験といい、就活といい、よくわからない構造に精神を壊されすぎる。構造をぶち壊す気概が欲しい。

お役人文書

  お役人の言葉遣いというものがなんとなくある。アカデミックな文体とはおおよそ違うものであることは確かだが。お役人のボキャブラリー、お役人のリズム感、みたいなものが確かにある。それがどういうものかうまく言語化はできないが、そういうものに自分の言葉遣いを当てはめていくことは数少ない仕事の楽しみでもある。いつかそれらを具体化できればと思うし、いつかお役人の言葉遣いを用いて言葉遊びが出来るようになれればなあと思う。

  上手くなるには遊びが大事だと誰かが言ってた気がする。剣術の先輩だか師匠だったか。遊べるくらいの頭の余裕がないとどうにもならない。遊ぶというのは実はとても高等な技術じゃないか。一定のルールのもとで最高のパフォーマンス、アフォーダンスを発揮するだけの心身の余裕があるわけだから。決してサボるわけではない。

  仕事もある程度遊び心があればいいと思う。頭カチコチだからなおさら。

春に②

  春なんですね。


  春は嫌いですね。なんでかざわざわするから。

  このざわざわ感はどうやら日本人共通の感情なようで、谷川俊太郎の「春に」に共感を抱く人の多さからもそれがなんとなくうかがい知れる気がする。一方で「春」に皆が抱く感情が谷川俊太郎の言葉に規定されてることを面白くないなと思ったりもする。あの詩はなんだかんだ春に対して希望を抱いているから。

  春が煩わしい。出会いと別れの季節という定型句に起因するものであろうか、とにかくざわざわする。落ち着かない。所在がない。無駄にやる気が湧いてくる。エネルギーを消耗する。冬の停滞感が恋しくなる。もっと冷静でいたい。そんな感じ。 

 

  こんな風に春をこけ落としたところで、谷川俊太郎の春のイメージに固定化されてしまってることに気づいてしまうだけで、なんとも悔しい。みなの春のイメージを聞きたい。

春に

  春ですね。春です。


 ブログというか、「わからない」ことを書き連ねるだけの作業がしたくなった。仕事だと「わかる」文章を書くことしか許されない。誰にでも「わかる」文書を書くことがお役人の仕事なので仕方ない。

  大学時代は、わからないことをなんとかわかろうとする過程を無理やり文章にする営みが許されていた感じがあって、それが心地よかったのだけど、どうやら社会人、とりわけお役人はそうもいかないらしい。

  意味のなさそうなことをひたすら書いて、それでなんかしらの気持ちよさを感じていたい。