定年即死と、ただ生きるということ
どの業界でも定年が延長されつつありますが、多分我々が退職を意識する頃には70歳まで働かされることになっているのでしょうね。
まあ確かに医療が発達して、寿命は伸びて、そのぶん働けるということなのでしょうけども、相応の給料をもらうに足る知性が維持されるかどうかってかなり本人の努力次第な気がしますので、多分私は無理でしょう。70で定年退職した途端に逝きそうな感じがします。もしくは60を過ぎたあたりで耄碌をしすぎて若手にウザがられることでしょう。だったら孫をあやしながらのらりくらりと過ごしたいですわな。
老後の楽しみというものが到底なくなりそうなので、長いスパンで人生を考えていかねばなりません。老後趣味に没頭することも、今バリバリ働くという生き方もできません。悲しいですね。
とは言っても年金制度は崩壊するでしょうし、てめーのケツはてめーで拭けという風潮が私の定年間際には浸透しているような気もします。どうか早死にするか、60で一度(70まで働いた時と遜色ない)まとまった退職金をもらえるという選択肢が欲しいですね。70までバリバリ現役、というのはブラック体育会の思考の片鱗を感じるので、リタイアする人は気持ちよくリタイアさせてほしいです。再任用の給料増やすんでいいから。
いずれにしてもただ生きる、ということの方法を我々の世代は問われています。経済の流れに任せてとにかく働き、稼ぎ、60になって休むというプランでは我々の肉体と精神は朽ち果てることでしょう、なぜなら流れというものが死滅しているから。
自分なりにこういう風に生きるというのを決めて、周りからとやかく言われようとたくましくやっていくことが必要なのではないかと思います。ただ働いてれば生きて子孫が残せ、老後は安泰という神話は崩壊して来ている気がします(霊感)。
生きるということのハードルをもう少し重く捉えなければなりませんね。
元気でいるということ
誕生日を迎えました。存外いろんな方からSNSでお祝いの言葉を頂きました。ありがとうございます。今年も一年なんとか過ごせました。
みなさん一様に「元気出して」と仰るので側から見てて相当元気がないのでしょう。元気がないことは自覚しています
どうして元気がないのか、そもそも元気とはどういう状態だったかと考えてみようと思いましたが、果てしなく遠大なことになりそうなのでやめます。要するに軽い鬱のそれな気がします。
どうして鬱なのか、それもまた難しいのでプロのカウンセラーに金払ってでも話聞いてもらうのがいいのかな。身体的なことと、将来的なことと、今のこと、昔のこととあると思いますが根本的に自分のなにが自分をダメにしているのかわからない。細かい事象は挙げるときりがないですが、その細かい事象がどのようにして自分にストレスを与えているのか、そのストレス変換装置みたいなものが自分の精神構造にあるんじゃないかと思うんですね。解決すべきは外部の事象じゃなく、内部の構造です。要するに気の持ちようという話。
ストレス発散の方法がないわけではないです。剣術の稽古は楽しく、酒はうまく、パートナーは最高、筋トレは満足感が得られます。ただ対症療法ではなく、やはり根本的な精神構造をどうにかしないと、あと何十年間か生きづらくて仕方ないと思うのです。
生と死のはざまで
9月1日。夏休みの終わり。
高校生の自殺率が増加している、溌剌とした女子アナの声が耳を通り抜ける。元気よく語ることでもあるまい。
あるいは自殺というのは大したことないことなのかもしれない。生と死の間はそんなに遠くないものだという認識が広まってきているのかもしれない。死はあくまで情報として認知されるに過ぎないので、大騒ぎするほどのことではないのかもしれない。
自分が中高生の時は死にたいと思うのが当たり前だったので、自殺する高校生が増えているという事実にはあまり驚かない、まあ死ぬよな、と思う。それくらいに追い詰められてしまうような何かが彼らの、昔の僕の視界を包んでいたように思う。
自分に子供ができて、彼の、彼女の世界が死を選ぶほどに絶望的なものであったとして、その是非はよくわからない。その絶望を知らない方が幸せになるのか、絶望を知ってこそ愛を知る人になるのか、その因果関係は私にはわからない。わからないので多分まだ子供は欲しくない。
閑話休題。それはそれとして、絶望をどれだけ抱いたとして、最終的に死しか選ぶことのできない環境というのはあまりに社会というものが貧弱で、あまりに悲しすぎる。
遍く少年少女達が、死と生と、もう1つの武器を携えられる社会になることを願う。
隔絶
ミサイル発射地点、通過地点、着弾地点、すべて自分の世界の外の出来事なのだという認知。リアルでもリアリティでもない。
あらゆる事象が、遠近の如何を問わず他人事として映る時がある。自分の将来ですら自己の存在とは別の場所にある何かになる。
車窓の外を眺める。眼に映る建物、草木、全て実態を伴っているものなのかどうかもわからない。浮ついた感覚。
目的的
月曜日。玄関を出れば季節は秋になっていた
24時間テレビ、ブラック体育教師、みんな頑張りを求めている。頑張ることは素晴らしい。
ウサインボルトが全力疾走でフルマラソンするとどうなるかというと、死ぬわけですが、みんなあまりそういうことをわかっていない。
「あの人頑張ってるねえ」と言われる人はかならずほかの何かを頑張っていないと思ってるんですが、世の中には超人思想を持った人が多いらしく、なかなかわかってもらえない。
何かが欠落していないと他の何かに突き進む馬力は生み出せない、仕事を舐めてる人が趣味に全力投球したり、家庭を捨てている人が趣味に全てを注いだり。私に欠落してるものはなんだろう。欠落してるものが何かわかれば、私も他の何かを頑張れるであろう
アメーバ
過去記事見ると呪詛しか吐いてないな。もっとふわふわした、わたあめのような文章が書きたい。
昨日は労働で久々に自我がダメになり、今日は休んで朝10時ごろようやくアメーバからタコくらいに固形化し、お昼ご飯を食べたらようやく二足歩行が可能になったのでスーパー銭湯に来ており、今に至ります。
些細なことだったろうになんで自我がこんなにダメになったのか考えている、多分それは制度や周りの人間(おそらくこういう他から及ぶ力を社会と呼ぶのだろう)がダメな部分をなんとか自分が力ずくで解決しようとしてしまうからだとサウナで考えた。
みんなダメなんだからみんなで分け合えばいいのにね。それで却ってトラブルになるくらいなら、最初から気を遣わないほうがいいのだろうな。
仕事を始めてからというもの、いやおそらく中学の部活に入った辺りだろうか、着実に社会(=他者の規定する影響力)に殺されている実感が日に日に強くなっている。ある程度社会を殺そうとする気概がないと、自分は死ぬし、やがて社会も死んで行く。
別に仕事は社会に殺されることで金もらってるんだから良いんだけど、趣味ですら社会に殺されるのはね。何もできなくなっちゃう。社会性の伴う趣味はあんまりしたくない。研究対象となりうる身体技術、漫画、アニメ、文学、料理。それだけでいいや。社会はいらない。