ぶりこらーじゅ

思いついたことを組み合わせて

元気でいるということ

誕生日を迎えました。存外いろんな方からSNSでお祝いの言葉を頂きました。ありがとうございます。今年も一年なんとか過ごせました。

みなさん一様に「元気出して」と仰るので側から見てて相当元気がないのでしょう。元気がないことは自覚しています

 

どうして元気がないのか、そもそも元気とはどういう状態だったかと考えてみようと思いましたが、果てしなく遠大なことになりそうなのでやめます。要するに軽い鬱のそれな気がします。

どうして鬱なのか、それもまた難しいのでプロのカウンセラーに金払ってでも話聞いてもらうのがいいのかな。身体的なことと、将来的なことと、今のこと、昔のこととあると思いますが根本的に自分のなにが自分をダメにしているのかわからない。細かい事象は挙げるときりがないですが、その細かい事象がどのようにして自分にストレスを与えているのか、そのストレス変換装置みたいなものが自分の精神構造にあるんじゃないかと思うんですね。解決すべきは外部の事象じゃなく、内部の構造です。要するに気の持ちようという話。

 

ストレス発散の方法がないわけではないです。剣術の稽古は楽しく、酒はうまく、パートナーは最高、筋トレは満足感が得られます。ただ対症療法ではなく、やはり根本的な精神構造をどうにかしないと、あと何十年間か生きづらくて仕方ないと思うのです。

 

生と死のはざまで

9月1日。夏休みの終わり。

高校生の自殺率が増加している、溌剌とした女子アナの声が耳を通り抜ける。元気よく語ることでもあるまい。
あるいは自殺というのは大したことないことなのかもしれない。生と死の間はそんなに遠くないものだという認識が広まってきているのかもしれない。死はあくまで情報として認知されるに過ぎないので、大騒ぎするほどのことではないのかもしれない。

自分が中高生の時は死にたいと思うのが当たり前だったので、自殺する高校生が増えているという事実にはあまり驚かない、まあ死ぬよな、と思う。それくらいに追い詰められてしまうような何かが彼らの、昔の僕の視界を包んでいたように思う。

自分に子供ができて、彼の、彼女の世界が死を選ぶほどに絶望的なものであったとして、その是非はよくわからない。その絶望を知らない方が幸せになるのか、絶望を知ってこそ愛を知る人になるのか、その因果関係は私にはわからない。わからないので多分まだ子供は欲しくない。

閑話休題。それはそれとして、絶望をどれだけ抱いたとして、最終的に死しか選ぶことのできない環境というのはあまりに社会というものが貧弱で、あまりに悲しすぎる。
遍く少年少女達が、死と生と、もう1つの武器を携えられる社会になることを願う。

隔絶

ミサイル発射地点、通過地点、着弾地点、すべて自分の世界の外の出来事なのだという認知。リアルでもリアリティでもない。


あらゆる事象が、遠近の如何を問わず他人事として映る時がある。自分の将来ですら自己の存在とは別の場所にある何かになる。


車窓の外を眺める。眼に映る建物、草木、全て実態を伴っているものなのかどうかもわからない。浮ついた感覚。


呪縛

自分が何をどうやっても、自分を超越したところにある大きな共同体の都合でダメになるみたいなシチュエーションあるじゃないですか。


例えば中学生の私や高校生の私がいくら部活動をがんばったところでバブルは弾けるし、日本のメーカーは壊れていくし、円は弱くなっていくし、まあとにかく景気は悪くなるし、若者は貧乏になるわけです。


そうした中で自分の人生を良いものにしようと躍起になれる人ってどういうメンタルしてるんでしょうか、バブル崩壊後に生まれてそういうポジティブな言動を見せる人ってどこか頭のネジが外れているというか、あまりに世間に無頓着な気がします。いずれ貧困で死ぬのでしょうか



目的的

月曜日。玄関を出れば季節は秋になっていた


24時間テレビ、ブラック体育教師、みんな頑張りを求めている。頑張ることは素晴らしい。


ウサインボルトが全力疾走でフルマラソンするとどうなるかというと、死ぬわけですが、みんなあまりそういうことをわかっていない。


「あの人頑張ってるねえ」と言われる人はかならずほかの何かを頑張っていないと思ってるんですが、世の中には超人思想を持った人が多いらしく、なかなかわかってもらえない。


何かが欠落していないと他の何かに突き進む馬力は生み出せない、仕事を舐めてる人が趣味に全力投球したり、家庭を捨てている人が趣味に全てを注いだり。私に欠落してるものはなんだろう。欠落してるものが何かわかれば、私も他の何かを頑張れるであろう

アメーバ

過去記事見ると呪詛しか吐いてないな。もっとふわふわした、わたあめのような文章が書きたい。

 

昨日は労働で久々に自我がダメになり、今日は休んで朝10時ごろようやくアメーバからタコくらいに固形化し、お昼ご飯を食べたらようやく二足歩行が可能になったのでスーパー銭湯に来ており、今に至ります。

 

些細なことだったろうになんで自我がこんなにダメになったのか考えている、多分それは制度や周りの人間(おそらくこういう他から及ぶ力を社会と呼ぶのだろう)がダメな部分をなんとか自分が力ずくで解決しようとしてしまうからだとサウナで考えた。

みんなダメなんだからみんなで分け合えばいいのにね。それで却ってトラブルになるくらいなら、最初から気を遣わないほうがいいのだろうな。

 

仕事を始めてからというもの、いやおそらく中学の部活に入った辺りだろうか、着実に社会(=他者の規定する影響力)に殺されている実感が日に日に強くなっている。ある程度社会を殺そうとする気概がないと、自分は死ぬし、やがて社会も死んで行く。

 

別に仕事は社会に殺されることで金もらってるんだから良いんだけど、趣味ですら社会に殺されるのはね。何もできなくなっちゃう。社会性の伴う趣味はあんまりしたくない。研究対象となりうる身体技術、漫画、アニメ、文学、料理。それだけでいいや。社会はいらない。

弱者

 

僕には「できないと言う自由」というか、明らかに自分(若造)ができる範囲を超えた仕事を投げ捨てる自由があると思うんですよね。甘えかもしれませんが、誰かが甘えようとしてる結果自分がボロボロになってるんだから、別にいいと思うんです

社会人(社会人ってなんだよとまた悪態をつきたくなる)になってわかったのは、大人(大人ってなんだよ)はずるいということです。自分の怠惰、ミスをさも自分が悪くないかのように他人に転嫁します。より弱い人のせいにしますし、悪いことの理由を他者に求めます。その他者というのは、ひとつ前の記事の続きになりますが、やはり本能的に、動物的に自分より「弱い」と認識した相手になります。自分より強い人に自分のミスを背負わせることはしませんよね。ずるいね。

こういうことを人に相談すると、きれいな言葉が返ってくるのでまた頭が痛くなります。きれいな言葉というのは、物事が良い方向に循環していくものだという宗教に入っている人がぶつけてくる感じのやつです。

 

物事が良い方向に循環していくものだという宗教に入っている人、という響きが気に入ったのでもう少し続けます。たぶん思春期にいい経験をしたのだと思います。「やればできる」というようなことを実感できる、そんな環境があったのだと思います。自分も受験でそこそこ思い通りのところに入学しといて何を言ってんだという気がしますが、しょせん受験は自分と自分の頭がもたらす数字をどうこうするだけの営みなので、正直やれば誰でもできる類のものです。

良い方向循環脳の人たちは、「人に褒められる」ような体験の数が半端じゃなかったんだと思います。クラスメイトに疎外されたこともなければ、顧問に裏切られたこともないような気がします。偏見です。

自分の思春期を思い返すとそこまで絶望的な営みをしていたわけではないと思うんですが、何がここまで自分を卑屈に悲観的にさせているのか、就活を終えて社会人(社会人ってなんだよ)2年目を迎えた今でもわかりません。いい加減幸せな時に幸せだって胸を張れるようにしないと、自分に家族ができたときに、それまでをも破綻させてしまうような気がしてしまいます。