モチベーション
労働に対するモチベーションがない。以上。
モチベーションがないのは労働に対してだけか、そもそも生きることにモチベーションがないのではないか。労働と生活は分割できないのか、ワークライフバランスとは……。
やる気が満ち溢れ、感情豊かになっていても、どこか空回りしてしまうので、適当にやっていくのがよろしい気がします。あーまあこんなもんだよな、はいはい、やりますやります。みたいな。やりたいことがあると、やりたくないことに阻害された時萎えてしまう。
休日を楽しく過ごしたいというモチベーションだけでいい気がしますね。そしたら仕事もキッチリやるでしょう。いい休日のためには仕事をキッチリ終わらせなければ。そんな金曜日
給料が低すぎる話
給料が低い。以上。
給料が低いとなぜつらいか。消費量に足るだけの収入がないから。なので消費量を減らす方策に出たいのだが、酒はうまい。
もっとこう積まれたゲームや本を読むとか色々あるはずなのだが、それはなんとなく休日の過ごし方としてあまりストレス解消にならないというのがある。やはり前後不覚になるような体験というのは休日に金を使わないとなかなか味わえない
車の運転の練習でもするかあ。なんのために?車の運転はアクション性があるので楽しい、少なくとも意味のない形稽古よりは。あとは将来のため。将来ホームセンターで何かを買いあさり、持って帰る時のため。
三連休の過ごし方を考えてると、今年度の仕事を十全に終えることができるのか不安になってくる。出勤した方がよくねえか、みたいな
由来
ブリコラージュというのは文化人類学の用語でして、意味はまあググってください。
「その時見たものと今持ってる自分の思考回路だけでとりとめもないあり合わせの文章を垂れ流したいなあ」という願望からつけました。ふざけた感じを出したいのでひらがなで。
なんか一貫したテーマとか理論とかに基づいてブログ書くのだるいなと思ってこんな名前にしました。人気が出るのは一貫したブログです。
特にブリコラージュ的なものを人生の指針にしているわけではないと思いたいですが、現実はまあ未開の地の人間のようにその時あるものでどうにかしていくしかない感じの生き方になっている気もします。抜本的に自分の物語を変えたりしようとは思わない。たまにドラスティックな変化や進化を求め続ける成長の権化でしかない人いますが、何か犠牲にしてる気がします。何を犠牲にしてるのかはわからない。
ゲームにはまれなくなった話とロールプレイの話
昔は死ぬほどゲームしてたけど、今は全くしないという人結構いると思います、私もその口です。
なぜか。時間がないということであっさり結論が出てしまうかと思いますが、なぜか時間があってもやる気になりません。
おそらくあらゆるものが有限であるという意識が働いてるのです、私の場合は。時間はもちろんのこと、綿密にプレーするための頭の体力や集中力、そういったものが圧倒的に有限。
もう1つ。社会人全般に言えることかどうかはわからないですが、日頃の業務にあたっていて、磨耗していく、劣化していく能力の方が圧倒的に多いこと。肉体の衰えなんかがいい例でしょうか。私はそれに加えて文章力思考力がボロクソになって来ています。業務全般、つらいことやトラブルはあり、それで鍛えられる能力もあるにはありますが、どうしても絶対量が衰え>成長になり、そうするとゲームのキャラのレベル上げとかしてる場合じゃないなとなる。衰えを取り戻さなくては、という気分になります。人間は過去の栄光が捨てられない。
ここからまた別の話。
そうした自分の能力のマネジメントをしているうちに、自分はゲームのキャラなのかもしれない。という感覚が根付いてきているように感じます。キャリアプランとか結婚の年齢とか子供は何人欲しいとかそういうことを考えていると、自分が「真っ当ぽいサラリーマン」のロールプレイをしている気分になります。第三者として自分を操作しているわけです。これが奇妙な感覚なのか一般的なそれなのかはわかりませんが。
ロールプレイという表現、非常に今の状況に似つかしい。まあ仕事は個人ではなく担当主事としてやっているものだし、今後の家族生活も、ただ自分が「そこにある」だけでよかった子供の自分とはおさらばし、親なら親として、子なら子として、夫なら夫としての役割というものが生まれてくる年齢です。そのためのスキルアップも、私という個人ではなく、私に与えられた役割のために必要なものです。
私という個人はどこへ………という気持ちが高まってくると、離婚をしてしまったり仕事を辞めてしまったりするのでしょうか。ロールプレイされている私(役割としての私)と、ロールプレイをする私の境界がよくわからないことになると多分高まってしまうのでしょう。物語は慎重に選びましょう。
定年即死と、ただ生きるということ
どの業界でも定年が延長されつつありますが、多分我々が退職を意識する頃には70歳まで働かされることになっているのでしょうね。
まあ確かに医療が発達して、寿命は伸びて、そのぶん働けるということなのでしょうけども、相応の給料をもらうに足る知性が維持されるかどうかってかなり本人の努力次第な気がしますので、多分私は無理でしょう。70で定年退職した途端に逝きそうな感じがします。もしくは60を過ぎたあたりで耄碌をしすぎて若手にウザがられることでしょう。だったら孫をあやしながらのらりくらりと過ごしたいですわな。
老後の楽しみというものが到底なくなりそうなので、長いスパンで人生を考えていかねばなりません。老後趣味に没頭することも、今バリバリ働くという生き方もできません。悲しいですね。
とは言っても年金制度は崩壊するでしょうし、てめーのケツはてめーで拭けという風潮が私の定年間際には浸透しているような気もします。どうか早死にするか、60で一度(70まで働いた時と遜色ない)まとまった退職金をもらえるという選択肢が欲しいですね。70までバリバリ現役、というのはブラック体育会の思考の片鱗を感じるので、リタイアする人は気持ちよくリタイアさせてほしいです。再任用の給料増やすんでいいから。
いずれにしてもただ生きる、ということの方法を我々の世代は問われています。経済の流れに任せてとにかく働き、稼ぎ、60になって休むというプランでは我々の肉体と精神は朽ち果てることでしょう、なぜなら流れというものが死滅しているから。
自分なりにこういう風に生きるというのを決めて、周りからとやかく言われようとたくましくやっていくことが必要なのではないかと思います。ただ働いてれば生きて子孫が残せ、老後は安泰という神話は崩壊して来ている気がします(霊感)。
生きるということのハードルをもう少し重く捉えなければなりませんね。
元気でいるということ
誕生日を迎えました。存外いろんな方からSNSでお祝いの言葉を頂きました。ありがとうございます。今年も一年なんとか過ごせました。
みなさん一様に「元気出して」と仰るので側から見てて相当元気がないのでしょう。元気がないことは自覚しています
どうして元気がないのか、そもそも元気とはどういう状態だったかと考えてみようと思いましたが、果てしなく遠大なことになりそうなのでやめます。要するに軽い鬱のそれな気がします。
どうして鬱なのか、それもまた難しいのでプロのカウンセラーに金払ってでも話聞いてもらうのがいいのかな。身体的なことと、将来的なことと、今のこと、昔のこととあると思いますが根本的に自分のなにが自分をダメにしているのかわからない。細かい事象は挙げるときりがないですが、その細かい事象がどのようにして自分にストレスを与えているのか、そのストレス変換装置みたいなものが自分の精神構造にあるんじゃないかと思うんですね。解決すべきは外部の事象じゃなく、内部の構造です。要するに気の持ちようという話。
ストレス発散の方法がないわけではないです。剣術の稽古は楽しく、酒はうまく、パートナーは最高、筋トレは満足感が得られます。ただ対症療法ではなく、やはり根本的な精神構造をどうにかしないと、あと何十年間か生きづらくて仕方ないと思うのです。
生と死のはざまで
9月1日。夏休みの終わり。
高校生の自殺率が増加している、溌剌とした女子アナの声が耳を通り抜ける。元気よく語ることでもあるまい。
あるいは自殺というのは大したことないことなのかもしれない。生と死の間はそんなに遠くないものだという認識が広まってきているのかもしれない。死はあくまで情報として認知されるに過ぎないので、大騒ぎするほどのことではないのかもしれない。
自分が中高生の時は死にたいと思うのが当たり前だったので、自殺する高校生が増えているという事実にはあまり驚かない、まあ死ぬよな、と思う。それくらいに追い詰められてしまうような何かが彼らの、昔の僕の視界を包んでいたように思う。
自分に子供ができて、彼の、彼女の世界が死を選ぶほどに絶望的なものであったとして、その是非はよくわからない。その絶望を知らない方が幸せになるのか、絶望を知ってこそ愛を知る人になるのか、その因果関係は私にはわからない。わからないので多分まだ子供は欲しくない。
閑話休題。それはそれとして、絶望をどれだけ抱いたとして、最終的に死しか選ぶことのできない環境というのはあまりに社会というものが貧弱で、あまりに悲しすぎる。
遍く少年少女達が、死と生と、もう1つの武器を携えられる社会になることを願う。