修羅場
学校事務あれこれ
東京都の学校事務は、他県のそれと比べると特異な立場にあるのではないかと思います。
他県の場合、所謂行政職と学校事務職員とは異なる採用区分にありますが、東京都の場合は同様の区分にになっています。水道局や建設局の職員が異動を経て学校事務になったりします。
こうした制度がどういう表象として現れるか。
東京都の場合、学校に対して専門的な知識を問われることが稀です。
これは「行政に求められるべき厳格な基準を以って事務手続が可能となっている」ことの裏返しでもあります。あくまで行政マンとして学校予算の執行にあたるわけです。
他県の場合ですと、本来自治体に求められる執行の手続を取り入れるだけで大奮闘になっていたりします。これはどこかの学校事務の方が書かれた書籍やら雑誌記事なんかを読むと顕著に感じられます。
その一方で、東京都の学校事務は学校に興味のない人が割と多い気がします(霊感です)。
都の学校事務が(コンプラ上の制約があるとはいえ)、書籍や雑誌記事の場で意思表示をしているところを見たことがありません。学校事務研究大会というのが、教員のそれと同様に開催されているにも拘らず、東京都の職員が参加したり、壇上に立ったりすることはないようです。
ただしこれは上述の通りあくまで行政機関の1つだと捉えられているがゆえの結果でもあります。
蛸壺、袋小路と揶揄される今の部署ですが、もう少しやりようはあると思うのです。意識を高く持つとかそういう話ではなく、相対的な自分の立ち位置を俯瞰したほうが、若干人生が楽しくなるんじゃないかな。
磨耗
なぜこんなにも擦り切れているのか考えてみる。
例えば、仕事。
理想的な進め方、理想的なパフォーマンスの発揮、理想的な施工スケジュールがある。しかしまあ、当然それはあくまで理想である。人と人、天候、感情、人間関係、様々な要因によってそれは一つの現実に収まる。
例えば、武道。
理想的な稽古日数、理想的な弟子としての態度、理想的な身体技法がある。しかし私はサラリーマンであり、それらには当然限界がある。異なる武道(同じ刀を扱うそれだが、ボクシングとブラジリアン柔術を同じ体術としてまとめるくらい強引)を二足の草鞋でこなしていた学生時代とは違う。趣味の領域でなんとか続けていくしかない。
例えば、私生活。
理想的な退勤後の活動、自己啓発、家事、その他諸々がある。現実は仕事と週一回の道場通いをこなすだけで、あとは基本的に画面を見ながら眠り続けるだけの日々。メシこそ自分でなんとかするが、その他のことは実家任せである。1人の人間として自立して生きていけてるとは言えない。
どうやら理想と現実のギャップが自分を磨耗させている。現実に満足する?満足できる?
説教
かつての師匠が稽古を見に来て、帰りの車の中で1時間ほど説教される。内容はまあ、腑抜けるな、ぬるま湯に浸かるな、道に迷うな、ちゃんと稽古せい、ということでした。(ほんとはもっと情緒があります)
仕事がもっと単調でつまらないものなら心に染み渡る事もあったんでしょうが、今の私には荷が重い。
思うに、私は仕事にのめり込みすぎている。のめり込まない新人なんてカスだとも思います。
道場で発揮するべきストイックさというか、精神性というか、スピリチュアルな部分を全て職場に置いて来ている気がする。他人より不満が多いのも真剣にぶつかっているからこそだろうし、喜怒哀楽の多さもそうだ。
いくら他人から見て魅力のない仕事だと言っても、当の本人が真剣に(業務量的な意味でなく、色々葛藤し悩みながら)やってるんだから、その気持ちを踏みにじって「稽古のやる気がない」とか言わんでほしい(陰で言われてるらしい)。
私は私で、私の戦いを全うしてるのだから
火種
わずかな気流の流れ、ほんの少しの事象の狂いで燃え尽きてしまいそうな火種を、どうにか養生しながら動き続けている。
もうバブルや高度成長期のような、日本全体に共有されていた、「良い方向へのレール」というのは我々の世代にはないのだ。我々は物心ついた時からバブル崩壊、就職氷河期、リーマンショック、年金制度崩壊、そういう言葉の雪崩を浴び続けてきた。それは言霊のように、我々の脳髄に染みつき、我々の行動を規定してきた。
もはや楽天的に生きることは許されない時代になってきているのだ。我々は明日のしれない絶望感を抱きながら、僅かな火種を守り続けてここまできている。
年金を貰う側の人間、バブルを崩壊させた側のに人間、団塊の人間に気付いて欲しいのは、若者がそういう微かな残りカスを、使い終わりのシャンプーのように薄めながらなんとかあなた達と同じ土俵で働けているということである。もう我々はあなた達のように希望を楽観視してがむしゃらには働けないのだと。大きな物語から摂取できる莫大なエネルギーが枯渇してる中、各々の小さな、小さなエネルギーをどうにかして失わないように努めているのだと。
名前
名前というものについて考える。
名前というものがもたらす呪術的要素、単なる記号(その記号自体が非常に大きな要素ですが)以上の意味合いを、人文系に精通した諸兄はご理解いただけることと思います。詳しい学説の引用は仕事で疲れたので割愛します。
まあ人文系に限らずとも、名前を明かすことで真の力を発揮するエロゲもといファンタジーなんかの存在は一世を風靡しているところですか。名前を忘れられると存在がなかったことになるファンタジーの構造もよく見ますね。
卑近な例だと、名前の呼び方で大体そのひと同士の関係性を察することができたりします。
ところで今日、今日に限った話ではないですが、上司の頭が大変な有様だったのか、あらゆる人を呼ぶとき「御畑さん」と呼ぶようになってしまいました。
これは大変に失礼なことであり、個人の尊厳を奪いうる侮辱であると私は理解しますが、皆様いかがでしょうか。
とにかく怒りが収まらない。酒飲んで寝ます。
強制
人生を強制してくる人が多い。教育現場も道場も生き方を決め付けてくる場所である。
何が良いか悪いかを他人に押し付けてくる人が多い。何が害で何が益かを決め付けてくる人が多い。
育って来た課程も、資産も、嗜好も歪みも何もかも違う他人を、自身と同じフィールドの人間として、自身の善悪を押し付けてくる人が多い。
自由になりたい。
ただ目の前にあることを大事にしたい