ぶりこらーじゅ

思いついたことを組み合わせて

激しさ

試合前の高揚感。汗臭い体育館、不安と渇望の入り混じる鼓動、勝利の快感、敗北の辛酸。

 

演奏前の高揚感。温まった楽器と身体、バンド仲間とのアイコンタクト、銀賞に終わる後悔と、金賞を貰う快感と。

 

かつての自分にはどうやら激しさがあり、その激しさを以て生とするところがあったように思う。

給料を貰ってお勤めをしている今となっては、そのような激しさは消えうせてしまい、燃え上がることも吹き荒らすこともなくなってしまった。

 

お給料を貰ってパフォーマンスを発揮するっていうのはまあ役所仕事に限らず穏やかさが求められるものなのかもしれない。感情の昂りや熱中の有無に左右されるパフォーマンスというのは、なかなかに危うい。

 

穏やかになった。そう、穏やかになった。

今の自分にとっては試合前の高揚感、勝利の快感、感動的な出来事よりも、朝のお弁当のメニューだとか、洗濯物の干し方とか、そういうことの方が大事で、そこにあの熱は必要ないのだ。今の自分にとって、生を為すものは、そういうものなのだ。

 

アッパー

三連休が近い。甘美な響きだ。三連休。三連休と呟くたびにゾンビ化した肉体が脈を打ち、心は躍動する。

 

三連休、特にやることがない。素晴らしい。やることがない。

 

多分地元の都立図書館で数千円という単位で過去の資料(剣術とか兵法書とか)を複写してニヤニヤすることだろう(稽古しろよ)。稽古も行くよ。

 

スーパー先頭に行くのも良い。秋の風が気持ちよくなってきた。サウナと水風呂と露天風呂を往復し、上がったところでビールを飲み、一眠りしたところでまた風呂に入る。夕暮れが気持ちよくなったあたりでフラフラしながら帰る。素晴らしい。

 

ああ、今日も仕事だ。何をしなきゃいけないんだっけ。やらなきゃいけないことがたくさんあるな。はは。

ボキャブラリー

ボキャブラリーが死滅している

 

死滅していった理由は簡単で、誰にでもわかりやすい説明とやらを続けすぎるとそうなっていく気がする。また書き言葉でのみ用いられるような、音韻が膾炙されていない単語は殆ど使わなくなってしまった。話し言葉メインのアホのエクリチュールが完成されつつあり、非常に危機感がある。

誰にでもわかる言葉を使わねばならないということで、趣味の世界でのみ伝わるような複雑な概念を表す言葉も当然脳細胞から死滅しており、マジでやばい感じがある。(マジでやばい)

 

どうしたものか。

まあ書き言葉をもう少しどうにか取り戻せよというところがあるので、そのようにします。学生時代と比べると圧倒的に本を読まなくなった。ますますアホになっていく

 

 

言葉が使えないとアホなのか、という反論もあるだろうが、私は言語は思考に先立つと考えている派閥の人なので、そこには大きな溝があるものとして理解いただきたい。

剣術にしろ兵法にしろ、自分の動作を訓練する過程の初期段階では、身体感覚というよりは言語によるプログラミングが先立っている。慣れてきたらそれはセンスのようなものへと昇華されるので、プログラミングの過程を放っておいてもなんとかなったりするが、まあ理詰めで説明できないと今度は後続を育てられません。

 

絵画とかだとまた言語とは異なる記号(思考と表象をつなぐものくらいの意味)が用いられるのでしょうが、まあそれはまた別の話 

というわけでもう少し頑張ります(ボキャ貧)

蹴りたいアレ

雨。イヤホンをつけずに玄関を出る。

 

雨音をBGMに通勤していたが、自然音というものは感情を上書きするのではなく増幅させる効用があるようで、どんどん上司へのヘイトが溜まっていったのでジーンケリーに切り替える。

 

無限に担当外の仕事が降りかかってくることについて、どのように割り切ると幸せになるのかわからない。今の所割り振られるたびに机を蹴りたくなるが、大人になりたいのでそういうことはせず、はい、はい、やります、と返事をするしかない。

 

しかし大人はずるい、結局歳をとればとるほど利己的に利己的になっていくんじゃないかという気がする。私も自分のためにわがままになっていいだろうか

アレルギー

海水魚を食えない体にされた。思うところは色々あったが、みんなが立て続けに美味しい肉屋を紹介してくれたり、誘ってくれたり、お母さんが豚しゃぶのタレを2種類にしてくれたりしたので、愛が溢れている感じがあり、ネガティヴな展望はわりとどうでもよくなった

 

魚が食えなくて、仕事が大変で、あーそれだけだな、という感じ。こうして色々なものが死滅していくんだなという気配がある。

 

思えば色々なことに情緒たっぷりに嫌悪や憤怒を表現できた大学時代というのはかなり幸せな時間であったな。気味の悪いものに対してどのように気味が悪いのか、どうして気味が悪いのかをなんとか表現しようと試みる余裕があったのは健康的ですらあった。なんというか、何がどうしてそんな幸せな状態になれたんだろうか

 

今では、余暇にあたっては自分の感情をポジティブなほうへ動かすものをどうにか摂取しなければという気持ちで過ごしてる感じがあって、こんなことを続けていてはいつか本当に感受性が死滅してしまうのではないかと悲しくなる。美味い飯、綺麗な景色…なんかもっとさあ、あるじゃん。自分の琴線にふれるものってさあ

 そ

 

情緒

自分の文章を見返しているとなんかこう、情緒性?みたいなものがストンと抜け落ちているのがわかる。どこへ行ったのか。

仕事柄情緒たっぷりな文章なんて書こうものなら一瞬で死んでしまうので(現に怒られたことがある)、ある意味これも、質の良し悪しは置いておいて、出来上がってしまった1つの文体なのかもしれない。条文めいた文書を書けるようになるでしょうか。

 

閑話休題。心が疲れているのよとよく言われる。疲れていない同期の人間を俺は知らない。俺の周りにダウナーな人間が集まっているだけだという仮定はまあともかくとして、20代半ばの人間が軒並み疲弊してるとしたら終わってると思うのですが、どうでしょうか。

 

自分とその周りが狂っていたことの理由を答え合わせするのが私のライフワークの1つであり、それは色々な文章を読んだり、狂わせた側の立場の人間になってみることでようやく丸つけが終わるわけですが、今こうして若者が軒並み終わってしまってることの理由を早々に相対化したい気持ちがあります。

 

なぜいま答え合わせできないのかというと、答え合わせのための書物はあくまで市場に並ぶ商品でしかないので、「今若者を狂わせている主体」と作り手(もしくはメイン顧客層)が一致していた場合、そういう書物は世に出てこないから。内田樹がバカ売れする理由と表裏の関係。

働きたくない

働きたくない。なんで働きたくない?

 

たくさんの働きたくない理由があり、書き出す気もないくらいにモチベがないのでやめます。時給換算して「ああ今これをやったからウン千円手に入った」とか考えてたらやる気出るかしら。

 

完全に活力が尽きてるのはわかっていて、そういうときに「活力尽きたからもう休みます」とはならないのがつらい。カレンダーも、周りの人間も、そんなことはどうでもいい。私のスケジュールとそちらのスケジュールが合わないと話し合いはできないはずだが、自分が暇なときにドッと押し寄せてきて権利を主張する。メールの1つでも見てくださいよとなる。早く退職してくれとなる。

 

なんの話だっけ。完全に心がアレな時の逃げ道が欲しいという話か。とりあえず今日は外回りの予定を入れまくっている(月曜日は心が死んでいるのがわかりきっている)ので、なんとか乗り切ろうと思う。

 

なんでこんなに磨耗してしまったんだろう、というのは多分年度始めからの積み重ねで、色々な人とぶつかり合うのに疲れてしまった。いやぶつかってるんじゃなく、こちらとしては柔軟にやってるつもりなんだけど、綿を千切ったり粘土を地面に叩きつけたがる人というのが世の中はいるようで、それらにいいようにされるのが疲れた。もっと頭働かんのかな

 

そういう暴力を伴った言葉や態度で人が動くと思ってる大人が大多数であることに疲れてしまったのかもしれない。やわらかく、ふわふわしていたい