治らん(なにが?)
風邪5日目、発汗量がバグっており、通勤が危うい。発汗量がバグってんのか?気温がバグってんのか?いずれにせよ自律神経がバグっていきます。
去年は熱出しながら仕事したこともあったけどもはやそんなことしなくても世界は滅ばないことがわかったので、しません。自分が終わった時に同時に世界も終わっていく宗教の人がいますね。わからなくもないですが、私は自分が死んだ時に悲しむオカンの顔が想像できるので、その宗教には入っていません。入れたら楽だろうけど。
自分が死んだらそこで世界も終わり(荒廃していくとかそういう話ではなく単に実存として終わるという意味)という世界の捉え方、生きやすそうではありますが、自分をロールプレイしているという視点が加速していきそうで怖いですね。いや、その逆の捉え方とどっちがよりロールプレイ臭いんだろう。どちらですか?
これについて考えると生と死の境を捉え難くなり、生と死のそれぞれの理由を探し始めて危険ですが、続けていきます。
私が生きる理由も死にたい理由も特にあるわけではなく、あるのは「能く死にたい」という願望なだけのような気がします。悲劇的に死にたいのではなく、ただひたすら喜劇的な最期を遂げたいと思っています。孫に看取られながら死ぬみたいなアレです。
ある種では死にたくてたまらないわけですが、「まだ今はその時ではない(=死にたくない)」という意識に引っ張られて過ごしていると思います。かといって積極的に生きたいかというとまた難しい話ではありますが。死ぬべき時に死ぬ、ハラキリの精神(ウソ)
風邪
半年間ずっと懸念材料であった担当外の仕事にようやく片が付き、途端に風邪をひきました。
今日は四連休めです。37度程度の大したことない熱で3〜4日寝込むとかどんだけ病弱なんでしょうか。24時間戦えますか?
担当外の仕事で半年もストレス抱えるってすごいね。多分あと半年こんな感じでしょう。そういう楽しい職場です。
ホッとすると風邪ひくってよく聞くけどあれどういうギミックなんでしょうかね。なんか脳内物質が出てるのか、単に気が緩んでうがい手洗いを忘れるとかそういう話なのか。
なんか小学生の頃って朝おかんに「今日熱がある…」つって休んでも、昼飯の頃にはケロっとしてたよね。バケモンかよ。小学生になりたいね。小学生の頃はどんだけ熱出てもゲームしまくってたもんね。今もうSNSで友人に構ってもらうしか体力残ってないの。
老化を感じつつ、寝ます。
激しさ
試合前の高揚感。汗臭い体育館、不安と渇望の入り混じる鼓動、勝利の快感、敗北の辛酸。
演奏前の高揚感。温まった楽器と身体、バンド仲間とのアイコンタクト、銀賞に終わる後悔と、金賞を貰う快感と。
かつての自分にはどうやら激しさがあり、その激しさを以て生とするところがあったように思う。
給料を貰ってお勤めをしている今となっては、そのような激しさは消えうせてしまい、燃え上がることも吹き荒らすこともなくなってしまった。
お給料を貰ってパフォーマンスを発揮するっていうのはまあ役所仕事に限らず穏やかさが求められるものなのかもしれない。感情の昂りや熱中の有無に左右されるパフォーマンスというのは、なかなかに危うい。
穏やかになった。そう、穏やかになった。
今の自分にとっては試合前の高揚感、勝利の快感、感動的な出来事よりも、朝のお弁当のメニューだとか、洗濯物の干し方とか、そういうことの方が大事で、そこにあの熱は必要ないのだ。今の自分にとって、生を為すものは、そういうものなのだ。
アッパー
三連休が近い。甘美な響きだ。三連休。三連休と呟くたびにゾンビ化した肉体が脈を打ち、心は躍動する。
三連休、特にやることがない。素晴らしい。やることがない。
多分地元の都立図書館で数千円という単位で過去の資料(剣術とか兵法書とか)を複写してニヤニヤすることだろう(稽古しろよ)。稽古も行くよ。
スーパー先頭に行くのも良い。秋の風が気持ちよくなってきた。サウナと水風呂と露天風呂を往復し、上がったところでビールを飲み、一眠りしたところでまた風呂に入る。夕暮れが気持ちよくなったあたりでフラフラしながら帰る。素晴らしい。
ああ、今日も仕事だ。何をしなきゃいけないんだっけ。やらなきゃいけないことがたくさんあるな。はは。
ボキャブラリー
ボキャブラリーが死滅している
死滅していった理由は簡単で、誰にでもわかりやすい説明とやらを続けすぎるとそうなっていく気がする。また書き言葉でのみ用いられるような、音韻が膾炙されていない単語は殆ど使わなくなってしまった。話し言葉メインのアホのエクリチュールが完成されつつあり、非常に危機感がある。
誰にでもわかる言葉を使わねばならないということで、趣味の世界でのみ伝わるような複雑な概念を表す言葉も当然脳細胞から死滅しており、マジでやばい感じがある。(マジでやばい)
どうしたものか。
まあ書き言葉をもう少しどうにか取り戻せよというところがあるので、そのようにします。学生時代と比べると圧倒的に本を読まなくなった。ますますアホになっていく
言葉が使えないとアホなのか、という反論もあるだろうが、私は言語は思考に先立つと考えている派閥の人なので、そこには大きな溝があるものとして理解いただきたい。
剣術にしろ兵法にしろ、自分の動作を訓練する過程の初期段階では、身体感覚というよりは言語によるプログラミングが先立っている。慣れてきたらそれはセンスのようなものへと昇華されるので、プログラミングの過程を放っておいてもなんとかなったりするが、まあ理詰めで説明できないと今度は後続を育てられません。
絵画とかだとまた言語とは異なる記号(思考と表象をつなぐものくらいの意味)が用いられるのでしょうが、まあそれはまた別の話
というわけでもう少し頑張ります(ボキャ貧)
蹴りたいアレ
雨。イヤホンをつけずに玄関を出る。
雨音をBGMに通勤していたが、自然音というものは感情を上書きするのではなく増幅させる効用があるようで、どんどん上司へのヘイトが溜まっていったのでジーンケリーに切り替える。
無限に担当外の仕事が降りかかってくることについて、どのように割り切ると幸せになるのかわからない。今の所割り振られるたびに机を蹴りたくなるが、大人になりたいのでそういうことはせず、はい、はい、やります、と返事をするしかない。
しかし大人はずるい、結局歳をとればとるほど利己的に利己的になっていくんじゃないかという気がする。私も自分のためにわがままになっていいだろうか
アレルギー
海水魚を食えない体にされた。思うところは色々あったが、みんなが立て続けに美味しい肉屋を紹介してくれたり、誘ってくれたり、お母さんが豚しゃぶのタレを2種類にしてくれたりしたので、愛が溢れている感じがあり、ネガティヴな展望はわりとどうでもよくなった
魚が食えなくて、仕事が大変で、あーそれだけだな、という感じ。こうして色々なものが死滅していくんだなという気配がある。
思えば色々なことに情緒たっぷりに嫌悪や憤怒を表現できた大学時代というのはかなり幸せな時間であったな。気味の悪いものに対してどのように気味が悪いのか、どうして気味が悪いのかをなんとか表現しようと試みる余裕があったのは健康的ですらあった。なんというか、何がどうしてそんな幸せな状態になれたんだろうか
今では、余暇にあたっては自分の感情をポジティブなほうへ動かすものをどうにか摂取しなければという気持ちで過ごしてる感じがあって、こんなことを続けていてはいつか本当に感受性が死滅してしまうのではないかと悲しくなる。美味い飯、綺麗な景色…なんかもっとさあ、あるじゃん。自分の琴線にふれるものってさあ
そ